誕生から終戦まで
戦争真っ只中の昭和17年11月、東京御茶ノ水の「順天堂病院」で私は生まれた。
父は鹿児島出身の洋画家(県の主要な美術館に展示多数)で、母は源平の戦いで(扇を射抜いて)有名になった「那須与一」の兄弟の直系という旧家の出である。母の実家も絵描きやら陶芸家を輩出し、母自身も俳人であった。
現在、栃木県大田原市在住の従姉妹夫婦も彫刻家と陶芸家、ついでに言えばその息子は現在「音楽大学大学院生」である
分かりやすく・・・一言で言えば・・・机に向かってコツコツ勉強したり、真面目に毎日通勤したりというのが「苦手」な家系ということらしい。ちなみに、私の相方「夫」も藤原歌劇団で活躍したオペラ歌手、そして定年までは音楽大学で教鞭をとっていた。
そして親族一同
「極めて食いしん坊」で一致していることはまぎれもない事実。
「那須与一氏」がその点がどうであったかは1180年代のことなので知る由もないが。
「終戦」は、疎開先の三浦半島の芦名という漁村で迎えた。3才である。
広島に原爆が落とされた時の新聞の写真報道は、今でもよく覚えている。
終戦の日、父が「敗戦した事を」私に謝った。その時は分からなかったけれど、あの時の大人の気持ちを思うとたまらない。そして、その後60年余経った日本の原状に複雑な思いをする毎日である。
翌年、新憲法が発布され
「憲法9条」について、母が、近くの浜を歩きながら4才の私に分かるように話してくれた。
「もう、日本はどこの国とも戦争はしないのよ」「本当に?よかった!」昨日のことのように覚えている優しい母との会話であった。
という訳で、記憶力は良い方だと思うし、終戦以前の2才頃の日常生活の断片もけっこう覚えている。
そのほとんどに「
食べ物」がなんらかの形で登場するのには我ながら呆れるが・・・。
なのに、
近頃ではなぜ「一週間前、否、昨日のこと」を簡単に忘れるのか?というわけで・・・今のうちに・・・私が歩みながら出会ってきた「ちょっとした良い話。面白い話。」を記していきたいと思う。
勿論「
食べ物」が中心と思うけれど・・・。
関連記事