誕生から終戦まで

Viva Raccolta ! !

2009年06月13日 23:58

戦争真っ只中の昭和17年11月、東京御茶ノ水の「順天堂病院」で私は生まれた。

父は鹿児島出身の洋画家(県の主要な美術館に展示多数)で、母は源平の戦いで(扇を射抜いて)有名になった「那須与一」の兄弟の直系という旧家の出である。母の実家も絵描きやら陶芸家を輩出し、母自身も俳人であった。

現在、栃木県大田原市在住の従姉妹夫婦も彫刻家と陶芸家、ついでに言えばその息子は現在「音楽大学大学院生」である

分かりやすく・・・一言で言えば・・・机に向かってコツコツ勉強したり、真面目に毎日通勤したりというのが「苦手」な家系ということらしい。ちなみに、私の相方「夫」も藤原歌劇団で活躍したオペラ歌手、そして定年までは音楽大学で教鞭をとっていた。

そして親族一同極めて食いしん坊で一致していることはまぎれもない事実。
「那須与一氏」がその点がどうであったかは1180年代のことなので知る由もないが。

「終戦」は、疎開先の三浦半島の芦名という漁村で迎えた。3才である。
広島に原爆が落とされた時の新聞の写真報道は、今でもよく覚えている。

終戦の日、父が「敗戦した事を」私に謝った。その時は分からなかったけれど、あの時の大人の気持ちを思うとたまらない。そして、その後60年余経った日本の原状に複雑な思いをする毎日である。

翌年、新憲法が発布され「憲法9条」について、母が、近くの浜を歩きながら4才の私に分かるように話してくれた。
「もう、日本はどこの国とも戦争はしないのよ」「本当に?よかった!」昨日のことのように覚えている優しい母との会話であった。

という訳で、記憶力は良い方だと思うし、終戦以前の2才頃の日常生活の断片もけっこう覚えている。
そのほとんどに「食べ物」がなんらかの形で登場するのには我ながら呆れるが・・・。

なのに、
  近頃ではなぜ「一週間前、否、昨日のこと」を簡単に忘れるのか?というわけで・・・今のうちに・・・私が歩みながら出会ってきた「ちょっとした良い話。面白い話。」を記していきたいと思う。
勿論「食べ物」が中心と思うけれど・・・。

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